梶谷懐

テクノロジーの進化に支えられた「監視社会化」と、「市民社会」との関係については、これまでも欧米や日本などの事例をめぐって活発な議論の蓄積があります。 そこでは、テクノロジーの進展による「監視社会」化の進行は止めようのない動きであることを認めたうえで、大企業や政府によるビッグデータの管理あるいは「監視」のあり方を、「第三の社会領域」としての市民社会がどのようにチェックするのか、というところに議論の焦点が移りつつあります。 しかし、現代中国のような権威主義体制をとる国家において、「市民(社会)による政府の『監視』の監視」というメカニズムは十分に機能しそうにありません。だからといって、中国のような権威主義的な国家における「監視社会」化の進行を、欧米や日本におけるそれとはまったく異質な、おぞましいディストピアの到来として「他者化」してしまう短絡的な姿勢もまた慎むべきでしょう。 「監視社会」が現代社会において人々に受け入れられてきた背景が、利便性・安全性と個人のプライバシー(人権)とのトレードオフにおいて、前者をより優先させる、功利主義的な姿勢にあるとしたら、中国におけるその受容と「西側先進諸国」におけるそれとの間に、明確に線を引くことは困難だからです。 私は、このような問題を考察するうえでは、「監視社会」が自明化した現代において、私利私欲の追求を基盤に成立する「市民社会」と、「公益」「公共性」の実現をどのように両立させるのか、という難問を避けて通るわけにはいかない、と考えています。 例えば、中国社会を論じる際に1つの重要な軸であり続けた、近代的な「普遍的な価値」「市民社会論」の受容、という主題はすでに過去のものになりつつあるのでしょうか。あるいは、現代中国の動きは「管理社会化」の先端を行く事例として、日本に住むわれわれにとっても参照すべき課題を提供しているのでしょうか。 こういった「問い」を自分たちにも突きつけられている問題として受け止めることが、中国のような権威主義国家の台頭を前に、私たちに必要とされている姿勢なのだと思います。